2010年 03月 29日
ビルマの戦場で叔父は死んだ(3) |
前日(2月7日)に峻険な山道を辿りいくつもの山を越え、たどり着いた村で「ミンガラーの風」の活動をしてきました。
その道すがら、この道を、この村を、あの峰を・・・鉄砲を担いだ叔父たちは進軍していったのかなぁ?
なぜこんな所まで戦いに来たのかなぁ?
なぜ死ななければいけなかったのかなぁ?
そんな思いが頭の中に次から次に浮かんできました。
1944年3月4日にインパール作戦に参加、敗走の途中同年7月2日チン丘陵道8.2マイルでマラリアにかかり、7月15日チンドゥエン県シーン患者集合所に於いて戦病死、手がかりはこれだけでした。
チン州出身のKさんと出会ったお陰で叔父の終焉の地を訪れ供養する夢が叶います。
65年もの歳月が流れました。
昨日、チン州に行く道すがらカレーの町を見下ろしたとき見えたのがこの山。
この山の麓がシーン村、シーンとはチン語で「象」のことだそうだ。
ここにたどり着くまで事は簡単ではなかった。とても多くの人たちの協力のお陰。
村ではこの方が待っていてくれた。
88歳、ここは日本軍の物資集積所で兵隊の宿舎や倉庫があり戦後も戦車やトラックなどが放置されていたと語る。亡くなった兵士の埋葬場所も教えてくれた。
案内してもらう。
ここは兵舎があった場所・・・
ここが埋葬場所、何十人か何百人か分からないけれど多分供養もなく葬られたことだろう。
感無量・・・・・・色々な思いが胸にせまる、明日改めてお参りします。
翌朝、池田さん、Tsさんと一緒に町で買い物。
お花を買い・・・
果物を買い・・
・お線香を買い・・・
お菓子とお酒を買い・・・この子は「グーテンモルゲン」とご挨拶。ドイツに留学していたそうだけれど、今は実家でお店番、彼女を見ているとこちらまで元気になる。
再びシーン村へ、村の入口。
道中の埃があまりにもひどいので、ドライバーがマスクをプレゼントしてくれた。
埋葬場所まで辿るあぜ道、日本の田舎の風景に似ているのが救いだ。
この風景もソックリ・・・
実家に残る叔父の弟から届けてもらった故郷の小石。
叔父に、そして見知らぬ兵士たちに無念さを思い祈る。
65年もかかってしまいました。
池田さんとTsさん、わたしより若い世代の彼らが立ち会ってくれたことは本当に良かった。
物珍しそうに見ていた少年。
平和な時代を生きさせてもらった自分と、24歳でビルマで戦死した叔父。
叔父の供養を思い立って6年、たった1枚の戦歴書に記されたかすかな手がかりからその思いを果たすことが出来ました。
実現する可能性がほとんど無くても思い続ける事をあきらめなければ、多くの手が差し伸べられることが分かりました。
最後の写真はわたしが少年にここに来た理由を語っているところです。
そして「ここを通りかかったらわたしの替わりに少しでいいから祈ってください」、と頼みました。
彼の記憶の中に生き続けてくれると思います。
参照:なぜミャンマーですか? (まだまだ続く)
その道すがら、この道を、この村を、あの峰を・・・鉄砲を担いだ叔父たちは進軍していったのかなぁ?
なぜこんな所まで戦いに来たのかなぁ?
なぜ死ななければいけなかったのかなぁ?
そんな思いが頭の中に次から次に浮かんできました。
1944年3月4日にインパール作戦に参加、敗走の途中同年7月2日チン丘陵道8.2マイルでマラリアにかかり、7月15日チンドゥエン県シーン患者集合所に於いて戦病死、手がかりはこれだけでした。
チン州出身のKさんと出会ったお陰で叔父の終焉の地を訪れ供養する夢が叶います。
65年もの歳月が流れました。
昨日、チン州に行く道すがらカレーの町を見下ろしたとき見えたのがこの山。
この山の麓がシーン村、シーンとはチン語で「象」のことだそうだ。
ここにたどり着くまで事は簡単ではなかった。とても多くの人たちの協力のお陰。
村ではこの方が待っていてくれた。
88歳、ここは日本軍の物資集積所で兵隊の宿舎や倉庫があり戦後も戦車やトラックなどが放置されていたと語る。亡くなった兵士の埋葬場所も教えてくれた。
案内してもらう。
ここは兵舎があった場所・・・
ここが埋葬場所、何十人か何百人か分からないけれど多分供養もなく葬られたことだろう。
感無量・・・・・・色々な思いが胸にせまる、明日改めてお参りします。
翌朝、池田さん、Tsさんと一緒に町で買い物。
お花を買い・・・
果物を買い・・
・お線香を買い・・・
お菓子とお酒を買い・・・この子は「グーテンモルゲン」とご挨拶。ドイツに留学していたそうだけれど、今は実家でお店番、彼女を見ているとこちらまで元気になる。
再びシーン村へ、村の入口。
道中の埃があまりにもひどいので、ドライバーがマスクをプレゼントしてくれた。
埋葬場所まで辿るあぜ道、日本の田舎の風景に似ているのが救いだ。
この風景もソックリ・・・
実家に残る叔父の弟から届けてもらった故郷の小石。
叔父に、そして見知らぬ兵士たちに無念さを思い祈る。
65年もかかってしまいました。
池田さんとTsさん、わたしより若い世代の彼らが立ち会ってくれたことは本当に良かった。
物珍しそうに見ていた少年。
平和な時代を生きさせてもらった自分と、24歳でビルマで戦死した叔父。
叔父の供養を思い立って6年、たった1枚の戦歴書に記されたかすかな手がかりからその思いを果たすことが出来ました。
実現する可能性がほとんど無くても思い続ける事をあきらめなければ、多くの手が差し伸べられることが分かりました。
最後の写真はわたしが少年にここに来た理由を語っているところです。
そして「ここを通りかかったらわたしの替わりに少しでいいから祈ってください」、と頼みました。
彼の記憶の中に生き続けてくれると思います。
参照:なぜミャンマーですか? (まだまだ続く)
by mingaranokaze
| 2010-03-29 15:41
| 戦場の記憶