2011年 07月 05日
「ふところ」通信から転載 その2 |
「懐」通信の発信者は子どもNGO懐を主宰している高森さん(写真左)
彼との出会いは2008年5月3日ミャンマー・ヤンゴン。猛烈なサイクロンに襲われた日です。
飛行場も閉鎖され、帰国出来なくなった日本人同士でした。
それ以来相互に協力し合いながらお付き合いが続いています。
高森さんの即断即決の行動力にはいつも感服しています。
東日本大震災直後にも躊躇せず兵庫県から現地に飛んで災害支援をし、その2ヶ月後には被災地を見届ける目的で青森県から千葉県まで原チャリ一人旅を実行したのです。
私は20年ほど前その逆ルートをバイク一人旅をしたのですが津々浦々の風景や出会った人々の記憶は美しいまま残っています。
体力が許せば私も高森さんと同じ行動を取ったでしょう。
彼の快諾を得たのでその報告の一部を転載します。
懐」通信 vol 585
5月10日に浜坂を出発。 列車と飛行機で11日に八戸に到着。そこから、あらかじめ八戸の運送会社に送っておいた原付50ccバイク愛車<ナタリー2号>にまたがり南下を開始しました。
被災距離500km以上とも言われる今回の震災被災地を身に刻もうと思いました。
青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県、房総半島の突端をまわって東京まで。マスコミで報道されないような小さな村々をまわったり、途中、雨による土砂崩れで通行不能、あるいは、地図にある大鉄橋道路が、いまだに復旧されていなかったりと、何度も迂回を余儀なくされたこともあり、結局、ナタリーでの全走行距離は1365kmにもなりました。
昨日、17日、東京からJRで浜坂に戻りました。
私は車を持っていません。
唯一、原付バイクを持っていますが、これまでの最長走行は町内の久斗山までの約7km。普段は、200m先にあるスーパーに買い物に行く程度です。今回こうしてバイクでの東北関東縦走を考えたのですが、もともと車やバイクに関心がなかったせいで楽観的に考えていた部分が多く、実際に運転してみると、車に追い抜かれるたび、その風圧で車体ごと揺らされ、また、<赤青黄>の交通信号の下段にまた青矢印の信号があり、赤なのにその下に矢印が出ると皆が進み・・(なんじゃこりゃ、浜坂にはないど、こんな信号!)・・・これを理解するのにかなり時間がかかるなど、町内のスーパーの買い出しとはまったく状況が異なり、想像以上に神経をつかってしまいました。
そんな中、転倒回数0回。 私もナタリーも良くやったと思います。
「懐」通信 vol 586
「青春十八きっぷ」を使って、津軽半島の先端・三厩村から福岡まで本州を縦断したのは、二十歳のときです。
青森はその時以来、三十一年ぶりです。
震災から二ヶ月。 その爪痕はどこまで残っているのだろうか。 いなくても、その広範囲な被災地をしっかりと実感したいと思いました。
八戸港~階上(はしがみ)。
「懐」通信 vol 587 ( 岩手県《久慈~野田》 )
道路橋が見事に(?)、道幅一本分、内陸側に押されています。
これから道中目にする破壊された数々の防波堤も、そのほとんどがその「継ぎ目」から引き剥がされています。
「懐」通信 vol 589 ( 被災地 hitoritabi /防波堤 )
ここでもやはり、防波堤はその「継ぎ目」から破壊されて(倒されて)います。
素人目ながら穿って見れば、実はこれは継いでいないのではないか?
各ブロックごとに製造したものを、ただ「並べて」置いていただけではないのか?
防波堤の高さやコンクリートそのものの強度の問題よりも、こうした”手抜き工法”が津波被害を大きくしたのではないか? そこを問題にすべきではないのか?
”破壊”されていたなら、どこかあきらめ(?)もつきそうなものだが、それがブロックごとに”倒されて”いたとなると問題だ、と思うのですが。
たぶん、私が正しい。
まだ続く・・・・・・・・
by mingaranokaze
| 2011-07-05 17:04