2011年 08月 13日
「ふところ」通信より転載 その7 |
懐」通信 vol 616 (茨城県《大洗》 )
3/11の津波襲来の直後、海岸沖で巨大な渦潮が発生していたのが、ここ大洗です。
食堂に町のポスターが貼ってありました。
海に向かって鳥居が立てられています。
古来より、海神への畏敬、畏怖の思いがこれを建立させたのでしょうか。
今回の震災を暗示していたようで、思わずこの前で立ち尽くしてしまいました。
懐」通信 vol 616 (茨城県《平潟~磯原》 )
茨城県の北茨城市に入りました。
ここも大きな被害を受けた地域の一つですが、二ヶ月たったこの時点では、瓦礫の撤去は他地域に比べると進んでいるように見えました。
「懐」通信 vol 618 (千葉県《飯岡~九十九里浜》 )
千葉県に入りました。
飯岡港の湾内は復旧されているように見えましたが、瓦礫の集積場ではまだまだ作業が続きそうに見えました。
青森から時速20kmで這う様に走って来ましたが、ここ九十九里浜から房総半島まで一気に爆走しました。
瞬間最高速度61km。私は風になりました。
「懐」通信 vol 619 (千葉県《房総半島》~東京 =おわり=)
房総半島沿岸に被害痕を見つけることはできませんでした。
また雨が降って来ました。 終着地の東京を目指しました。
浦安方面に向かう道路はひび割れ、段差がかなりありました。ここまでは津波は来なかったものの、地震の被害はあったようです。
東京・世田谷のM下邸に着いたときは、もう17日になっていました。
浜坂を出たのが5月10日。 翌11日に八戸に着き、そこからちょうど一週間。
この震災の意味するものを私なりに体に刻み込めました。
津波のその巨体もしっかりと把握しました。
TVや新聞を見ながら自分に何が出来るか考えるよりも、何が出来るかその場に立って考える。 これまでどおりの私の構えです。
紙皿一枚でどよめきが起こり、歓声が上がった震災当初。しかし、何を届けてもさほど喜んでいただけないのではないかという不安が起こって来ていた一か月前。私は一人旅して考えました。
この旅を通して、ここでするべきことは何であるのか、はっきりとしました。
「懐」通信 vol 547 ( 我らが行き処 / 3 )
宮城県 仙石線 野蒜駅。
海岸線からおよそ1km地点です。
先号は、「東名運河」付近一帯。海岸線からおよそ900m地点でした。
「懐」通信 vol 548 ( 我らが行き処 / 4 )
宮城県 野蒜小学校。 海岸線からおよそ1.3km。
一見、大丈夫そうに見えましたが、近づいてみると。 子ども達の下駄箱に車が刺さっています。
数十名の小学生が亡くなりました。
懐」通信 vol 549 ( 我らが行き処 / 5 )
宮城県塩竃市。塩竃港から、わずか100m地帯。
中学生でしょうか。 長靴に軍手。 二人が黙々とどこかに向けて前進していきます。
私の前を通り過ぎていきます。
声がかけられません。
3/11の津波襲来の直後、海岸沖で巨大な渦潮が発生していたのが、ここ大洗です。
食堂に町のポスターが貼ってありました。
海に向かって鳥居が立てられています。
古来より、海神への畏敬、畏怖の思いがこれを建立させたのでしょうか。
今回の震災を暗示していたようで、思わずこの前で立ち尽くしてしまいました。
懐」通信 vol 616 (茨城県《平潟~磯原》 )
茨城県の北茨城市に入りました。
ここも大きな被害を受けた地域の一つですが、二ヶ月たったこの時点では、瓦礫の撤去は他地域に比べると進んでいるように見えました。
「懐」通信 vol 618 (千葉県《飯岡~九十九里浜》 )
千葉県に入りました。
飯岡港の湾内は復旧されているように見えましたが、瓦礫の集積場ではまだまだ作業が続きそうに見えました。
青森から時速20kmで這う様に走って来ましたが、ここ九十九里浜から房総半島まで一気に爆走しました。
瞬間最高速度61km。私は風になりました。
「懐」通信 vol 619 (千葉県《房総半島》~東京 =おわり=)
房総半島沿岸に被害痕を見つけることはできませんでした。
また雨が降って来ました。 終着地の東京を目指しました。
浦安方面に向かう道路はひび割れ、段差がかなりありました。ここまでは津波は来なかったものの、地震の被害はあったようです。
東京・世田谷のM下邸に着いたときは、もう17日になっていました。
浜坂を出たのが5月10日。 翌11日に八戸に着き、そこからちょうど一週間。
この震災の意味するものを私なりに体に刻み込めました。
津波のその巨体もしっかりと把握しました。
TVや新聞を見ながら自分に何が出来るか考えるよりも、何が出来るかその場に立って考える。 これまでどおりの私の構えです。
紙皿一枚でどよめきが起こり、歓声が上がった震災当初。しかし、何を届けてもさほど喜んでいただけないのではないかという不安が起こって来ていた一か月前。私は一人旅して考えました。
この旅を通して、ここでするべきことは何であるのか、はっきりとしました。
「懐」通信 vol 547 ( 我らが行き処 / 3 )
宮城県 仙石線 野蒜駅。
海岸線からおよそ1km地点です。
先号は、「東名運河」付近一帯。海岸線からおよそ900m地点でした。
「懐」通信 vol 548 ( 我らが行き処 / 4 )
宮城県 野蒜小学校。 海岸線からおよそ1.3km。
一見、大丈夫そうに見えましたが、近づいてみると。 子ども達の下駄箱に車が刺さっています。
数十名の小学生が亡くなりました。
懐」通信 vol 549 ( 我らが行き処 / 5 )
宮城県塩竃市。塩竃港から、わずか100m地帯。
中学生でしょうか。 長靴に軍手。 二人が黙々とどこかに向けて前進していきます。
私の前を通り過ぎていきます。
声がかけられません。
by mingaranokaze
| 2011-08-13 14:42
| 番外編~東日本大震災