2017年 08月 10日
所変われば品変わる・・・音楽だって変わっちゃう |
COM―MON ICHIMURAの思いつき話
残暑お見舞い申し上げます。
ミンガラーの風ブログに訪問いただいき感謝申し上げます。
7月から8月にかけては孫たちの夏休みなので日本で過ごす事が多いのですが
ミャンマーに戻りたいなぁと思ってしまいます。
日本には四季があり住居もそれに合わせてオールシーズンの対応を考えなければなりませんが
ミャンマーは一年中熱帯ですから生活環境は暑さ対策一本に考えればよい・・・・・
暑さ寒さも彼岸までなどと自然が甘やかしてくれない分、いっそのこと開き直る覚悟が出来るのだと思います。

小学生だった頃夏休みの絵日記に「今日は気温が30度になった」とわざわざ書いていた記憶が60数年経った今でも残っているけれど、
いつのまにか35度超が特別ではなくなった日本の夏は本当に耐え難い。
しかし40度を超えることもあるミャンマー国にいるときは耐え難いと感じたことはない。
油断して熱中症で気を失ってしまったことがあったけれど・・・・
まさに所変われば品変わるということなのだ。
音楽だって所変われば品変わる・・・
もう7~8年前になるだろうか、インド国境に近いチン州に接するカレーという町で、ミニコンサートを開催したとき、終演後必死に何事かを訴えてきた青年がいた。
「僕の作ったピアノを見てください・・・聴いてください・・・弾いてください・・・僕の家に来てください」と通訳は言った。
“僕の作ったピアノ???”
彼はピアノというものを弾きたい一念でピアノを作ってしまった青年なのだ。
彼はピアノの実物を見たことも弾いたこともないのに本や写真で妄想を膨らませ、
街で手に入れられる限りの材料(ギターの弦、木材、皮、バネのようなもの、歯ブラシ、ねじ釘、接着剤その他使えそうなものは何でも)を苦労してかき集め遂に完成させてしまったのだ。

“そんな事はあり得ない、実物も知らないでピアノなんか作れる訳がない”と思った皆さん、
その考えは常識的で実に正しい。
そしてもちろんそれはとてもピアノと呼べるような代物ではない。
彼にはピアノを教えてくれる先生はいない。
楽譜のことも作曲のことも教えてくれる先生はいない。ない・・・・・・・・
彼の“ピアノ”でバッハ インベンション第一番を弾いてみた。
摩訶不思議な音の響きに相まって彼の気持ちの昂ぶりを感じるほどに私の心には罪悪感のようなものが大きくなっていった。

ピアノ青年は私の音楽人生における最高の先生となった。
音楽に対する甘さや、より深く向き合う楽しさを気づかせてくれたのだから・・・
ヤンゴンの事務所では音は出し放題、ピアノもリコーダーも歌も楽しく学び直しているので
演奏技術は今がピークだと自信が持てるようになった。
ネズミは寄りつかなくなったし、殺虫剤を使わなくてもゴキブリが仰向けにひっくり返っているようになったのがその証拠だ。
ピアノ青年は数年前ヤンゴンに出てきているらしいので、もし再会が叶い彼の心が変わっていなかったら
私のピアノをプレゼントしようと密かに思っている。

※横浜緑吹奏楽団 広報誌「吹い好い」連載コラムを一部修正して転載したものです。
残暑お見舞い申し上げます。
ミンガラーの風ブログに訪問いただいき感謝申し上げます。
7月から8月にかけては孫たちの夏休みなので日本で過ごす事が多いのですが
ミャンマーに戻りたいなぁと思ってしまいます。
日本には四季があり住居もそれに合わせてオールシーズンの対応を考えなければなりませんが
ミャンマーは一年中熱帯ですから生活環境は暑さ対策一本に考えればよい・・・・・
暑さ寒さも彼岸までなどと自然が甘やかしてくれない分、いっそのこと開き直る覚悟が出来るのだと思います。

小学生だった頃夏休みの絵日記に「今日は気温が30度になった」とわざわざ書いていた記憶が60数年経った今でも残っているけれど、
いつのまにか35度超が特別ではなくなった日本の夏は本当に耐え難い。
しかし40度を超えることもあるミャンマー国にいるときは耐え難いと感じたことはない。
油断して熱中症で気を失ってしまったことがあったけれど・・・・
まさに所変われば品変わるということなのだ。
音楽だって所変われば品変わる・・・

もう7~8年前になるだろうか、インド国境に近いチン州に接するカレーという町で、ミニコンサートを開催したとき、終演後必死に何事かを訴えてきた青年がいた。
「僕の作ったピアノを見てください・・・聴いてください・・・弾いてください・・・僕の家に来てください」と通訳は言った。
“僕の作ったピアノ???”
彼はピアノというものを弾きたい一念でピアノを作ってしまった青年なのだ。
彼はピアノの実物を見たことも弾いたこともないのに本や写真で妄想を膨らませ、
街で手に入れられる限りの材料(ギターの弦、木材、皮、バネのようなもの、歯ブラシ、ねじ釘、接着剤その他使えそうなものは何でも)を苦労してかき集め遂に完成させてしまったのだ。

“そんな事はあり得ない、実物も知らないでピアノなんか作れる訳がない”と思った皆さん、
その考えは常識的で実に正しい。
そしてもちろんそれはとてもピアノと呼べるような代物ではない。
彼にはピアノを教えてくれる先生はいない。
楽譜のことも作曲のことも教えてくれる先生はいない。ない・・・・・・・・
彼の“ピアノ”でバッハ インベンション第一番を弾いてみた。
摩訶不思議な音の響きに相まって彼の気持ちの昂ぶりを感じるほどに私の心には罪悪感のようなものが大きくなっていった。

ピアノ青年は私の音楽人生における最高の先生となった。
音楽に対する甘さや、より深く向き合う楽しさを気づかせてくれたのだから・・・
ヤンゴンの事務所では音は出し放題、ピアノもリコーダーも歌も楽しく学び直しているので
演奏技術は今がピークだと自信が持てるようになった。
ネズミは寄りつかなくなったし、殺虫剤を使わなくてもゴキブリが仰向けにひっくり返っているようになったのがその証拠だ。
ピアノ青年は数年前ヤンゴンに出てきているらしいので、もし再会が叶い彼の心が変わっていなかったら
私のピアノをプレゼントしようと密かに思っている。

※横浜緑吹奏楽団 広報誌「吹い好い」連載コラムを一部修正して転載したものです。
by MINGARANOKAZE
| 2017-08-10 22:10
| 思いつき話